スタッフブログ

父の背中から、社会見学。 

2012.05.13 個別記事リンク

父の背中から、社会見学。

「和、週末お父さんと出かけようか。」

いよいよ僕の番である。男ばかり三人兄弟の三番目である僕の、父と二人での週末社会探訪。今まで兄達から聞いてはいたが、ようやく僕にもお声がかかった。長男は当時流行りの映画を見た後、大きなチョコレートパフェを食べたらしい。次男の時はお茶の水の古本屋街で大好きな漫画を買ってもらい、やはり帰りには大人の足ほどの大きさのビフテキを食べたそうだ。

いつもとは違う父と二人での外出、僕にとっては大冒険である。兄達から聞いた話から推察すると、いつものラーメン屋の餃子とは違う、少しハイソな体験が待っている…何より父と二人きりで外出という事が生まれて初めての体験である。僕は少しかしこまりながら、自分の持っている服で一番上等なポロシャツに袖を通した。

団地前のバス停から駅まで行き、そこから電車で難波の繁華街へ。そこで父とどんな会話を交わしたか、いまいち覚えていない。きっと勉強はどうだとか、そんな話だったと思う。僕はこれから待っている出来事への期待と、初めての父と二人きりという状況に、少し緊張していたのかもしれない。

難波の繁華街はお祭りでもないのに、これでもかというほどの人で賑わっている。父は馴れた足取りで人の波を掻き分けて歩いてゆく。僕は迷子になるまいと必死に父の足元だけを見て、その機敏な歩調に合わせた。

程なく父の行く先は人の流れから外れ、裏の細い路地へ入った。父について行くしかない僕は一気に不安になった。こんな暗くて細い路地に一体何があるのだろう…。そう思っていると、父の足は一軒のガレージの前で止まった。「和、ここだよ。」父はそう言うと、ひょいと目の前のシャッターをくぐり、先へ行ってしまった。「ああ、ま、待って!」僕は大慌てで父の後を追った。

ガレージの中はカウンターのみの、こじんまりとしたお寿司屋さんだった。きっと外観を見ただけでは誰もお寿司屋さんだとは思わないであろう。カウンターに腰かけると、僕は大将の前に顔を覗かせるのがやっとだった。「なんでも好きなのを食べなさい。」そうは言っても初めての回らない寿司の、しかもカウンターを前にして、僕の体は硬直するしかなかった。「親仁さん、トロ握ってやってください。」父はそう言って、日本酒を口にした。「へい、お待ち。」僕の眼前には虹色に光るトロの姿が。僕みたいな子供が食べてはいけないような、まるで門前の小僧が和尚様の秘蔵の水飴を失敬する様な、変な背徳感を抱きながら、恐る恐るトロを口にした。舌の上でスッと脂が溶けて、口の中を旨味が支配した。「お父さん、これ、すごくおいしいね!もう溶けちゃったよ!」「そうだろう。どんどん食べろよ。」父はそう言って、また猪口を傾けた。

子供心に遠慮が働いて、最後までトロはこの一貫しか頼むことは無かった。けど店を出る頃には僕の心は急に大人びた様で、少しこそばゆいような、妙な誇らしさを得た気がしていた。

帰りに百貨店で、父は僕が前から欲しかったバスケットシューズを買ってくれた。家路までの車中、僕は饒舌に父に話しかけた、バスケ部で副部長になったこと、数学で苦戦していること、気になる女の子がいる事。父は一言、「そうか。何でも頑張れよ。」と答えてくれた。

かくして、僕と父の社会探訪は終わった。父がそっと大人への扉の入り口に、僕を導いてくれるようだった。